トップページ室長コラム一覧 > 室長コラム番外編:須藤哲生の『我が歯科技工人生』

このページの内容は須藤室長があいぼりー歯の相談室 須藤のブログ −良い歯医者の見分け方−に連載していた自身の半生を綴った記事をまとめたものです。

須藤哲生

昭和24年(1949年)、青森県弘前市(旧中津軽郡)で生まれる。 父は須藤が2才のとき、母は11才のときに他界。
2才から15才まで神奈川県横須賀市で成長、以降は東京で暮らす。
昭和42年(1967年)、東京医科歯科大学歯学部附属歯科技工士学校卒業。 同年、神奈川歯科大学補綴学教室入局。 以降、史上最年少の20才で歯科技工所を開設。歯科技工会社経営のかたわら、歯科技工器材の開発や販売なども経験。
平成13年(2001年)、日本初の歯科医療コーディネートサービス(歯科医院仲介業)を開始。
現在に至る。

歯科技工士学校の頃

技工士学校を受験

昭和39年(1964年)、NHKの人形劇『ひょっこりひょうたん島』が放送開始した年。 日本人選手の活躍に湧いた東京オリンピックが閉幕すると、中学三年生だった僕には進路の問題が現実感を伴って迫りつつあった。

その頃、両親はすでに他界し、僕は末姉とともに義兄(長姉の夫)の家での居候生活を余儀なくされていた。 そこで、義兄の負担を少しでも軽くするため、入学金や授業料が無料の国立の歯科技工士学校か、追浜にある日産自動車の養成工をめざすことにした。

僕に技工士学校の存在を教えてくれたのは、義兄の友人であった歯科医の清水良雄先生。(※当時は、どこの技工士学校も中学卒でも入学できた、また養成工は働きながら高校教育も受けることができる定時制みたいな仕組みになっていた)

中学での担任、荻原先生には地元の県立横須賀高校の受験を勧められて迷ったが、これ以上義兄に経済的な負担をかけるわけにはいかなかったので、高校受験はあきらめた。

しかし、普通高校の受験とは違って、技工士学校の受験勉強などまったく分からなかったが、それでも僕なりに一生懸命に勉強した。 そして神様の思し召しによるものなのか、運よく技工士学校に入学することができたのだ。
その知らせを受けたとき、腰が抜けるほど嬉しかったことを今でも思い出す。


東京医科歯科大学歯学部附属歯科技工士学校へ

時は昭和40年(1965年)、前年の東京オリンピックで女子バレーチームを金メダルに導いた大松博文監督の『なせば成る』が出版された年。
秋には後の青春学園ドラマの先駆けとなる『青春とはなんだ』(夏木陽介主演)が放映された。(布施明の歌う挿入歌「貴様と俺」がお気に入りでした。)

東京医科歯科大学歯学部附属歯科技工士学校は、東京の御茶ノ水駅近く、神田川の橋を渡ったところにあった。 技工士学校は、独立した校舎ではなく歯科大学病院の地下室に教室と控え室があり、講師室と事務室が何階だったかまでは忘れてしまったが、別の階にあった。

わが技工士学校のあまりのみすぼらしさにいささかビックリした。 でも講師の先生方は一流だった。 もう今となっては正確には覚えていないが、おおよそ以下の通り。

歯牙解剖:早川淑子先生、歯牙解剖実習・美術概論:石上新一先生、歯科理工学・歯科理工学実習:和久本貞雄先生、歯科理工学:神沢康夫先生、
有床義歯:林都志夫先生、冠・橋義歯:吉田恵夫先生、内山洋一先生、矯正実習:大坪淳造先生、教務主任兼歯科技工実習:桝田屋慎一先生。

あとは思い出せない。 その他の教科が英語、物理、古文、体育。
他にもあったかもしれないけど、同じく思い出せない。

同級生は、わずか15人。中卒組は6人。あとは高卒、高校・大学中退の人、それに全国の自衛隊から選抜された人が3人いた。とにかく、僕以外は、みんな秀才に見えた。


同級生とホットケーキの思い出

中でも長野県出身の武井邦生さんは東大の一次試験にも合格した人。 英語の授業では、あまりの発音の見事さにかえって気味悪さまで覚えてしまうほどだった。
「うへ、武井さん、僕の中学校の英語の先生よりすごい発音じゃん」と。

でも武井さんは近寄りがたいような嫌味な秀才ではなく、とても心優しい人だった。 武井さんは両親がいない僕の境遇にいたく同情され、ある土曜日の午後、銀座の不二家でホットケーキをおごってくれた。その時のことは今でも鮮明に覚えている。
お皿に残っていたシロップが、なめたかったくらいにおいしかった。

武井さん以外の同級生も、皆、良い人ばかりだった。 そして僕以外の同級生も皆、普通の人だったということも、間もなく判明した。


学校の授業、歯型彫刻のこと

英語や数学などの一般授業は、さすがに中卒組は追いつくだけでも精一杯だった。 しかし、歯型彫刻など、技工実習の成績だけは、「鉄は熱いうちにたたけ」というように、中卒組のほうが優秀だった。

体育の授業は、バレーボールとテニス、たまに学校近くの後楽園でなんと、ボーリングやローラースケート! 中学での体育授業とは一味違った授業であった。 バレーボールの先生は、空手チョップによるサーブ理論を提唱する始末だったし。

入学後、最初の技工実習は、石上新一先生が担当された「歯型彫刻(しけいちょうこく)」というもの。
縦6センチ、横4センチの長方形の石膏棒を彫刻刀(エバンス彫刻刀)とか、切り出しナイフを使って、前歯、奥歯の部位それぞれ28本の歯型見本(手本)を見ながら、そっくりに削り出すのだ。

歯型彫刻が見本そっくりにできたとしても、見本より大きすぎたり小さすぎると、不合格となる。 (余裕のある人は、歯型以外のものも彫刻していた。)
一見遊びのようだけれど、歯科技工士にとって歯型彫刻というものは基本中の基本だ。

歯型彫刻が上手だと、例外あるとしても、技工全般も優秀なのだ。 したがって歯科技工所や歯科医院に就職する際にも、よく歯型彫刻の実技試験がある。


技工の神様、桝田屋慎一先生

次に重要な歯科技工実習が「継続架工(クラウン・ブリッジ)実習」。
いわゆる差し歯を作るための授業。 この実習を担当された桝田屋慎一先生は、技工の神様のような人だった。

※余談。現在、奥歯の冠(差し歯)はすべて鋳造方式の冠だが、当時は「無縫冠(むほうかん)、俗称:サンプラ冠」、「モリソン冠」などの、板金加工的な冠と、咬合面だけを鋳造する「しゃく面鋳造冠」が主流で、鋳造冠が珍しかった。

前歯部の差し歯も現在のようにレジンやセラミックを使うことはほとんどなく、唇側の一部だけをくりぬいた、「開面金冠」という珍しい差し歯や、「サンプラ冠」という見映えを犠牲にした差し歯が当り前の時代だった。

さて、桝田屋先生のこと。
ある日の実習で、咬合面を鋳造したものと、板金加工したものとを銀ロウでロウ着(接合)する「しゃく面鋳造冠」の実習があった。 熟練の技がないと、お互いの接合面をピッタリと一致させることができないが、桝田屋先生はいくつ作っても、すべてピッタリと一致するばかりか、以前作ったものを交互に合わせても、すべてがピッタリだった。

そして、バーナーをあやつり鮮やかな手つきでロウ着していった。(注:筆力不足でこのときの驚きをうまく表現できません)
とにかく、桝田屋先生の数々の技工実習デモは、まさに「神業((かみわざ))」としか言いようがなかった。


清水歯科医院での居候生活

昭和41年(1966年)、ビートルズが来日、日本武道館で公演を行った。また、山崎豊子原作『白い巨塔』が田宮二郎主演で映画化、公開され話題となった年でもある。

2年生になってから、義兄の友人である清水良雄先生の父上、清水孝先生が開業されていた横須賀市三春町にある清水歯科医院での居候生活が始まった。 学校から戻ると、歯科医院の雑用と技工の手伝いをした。 良雄先生や孝先生は、技工のほうが診療するよりも楽しそうで、いつも深夜まで技工を楽しそうにこなしていた。

僕の就寝時間は大体12時過ぎ。
ときどき深夜にラジオ関東(現在はラジオ日本)から流れていたIVYクラブ?という番組に聞き入った。

起床は朝の4時ごろ。 まだ皆は夢の中、の時間だったので、ひとり静かに(コソ泥のように)朝食を食べた。 チョッピリみじめではあったが、今では楽しい思い出だ。 それよりも清水家が大家族だったため、夜、お風呂の順番を待つことのほうがつらかった。


阿部歯科医院での居候生活

昭和42年(1967年)、世はGS(グループサウンズ)時代。タイガース、テンプターズ、スパイダース等、髪を長くした男子がギターを片手に歌い踊る。

技工士学校の3年生になってから、今度は西武池袋線の石神井駅(練馬区)近くにあった阿部歯科医院での居候生活となる。 なぜ、お世話になったのか、その経緯は今となっては思い出せない。 おそらく学校の先輩か先生からだったと思う。

学校の授業が終ってから、夕方5時から阿部歯科で技工の仕事があるので、遊びに行く同級生たちがちょっぴりうらやましかった。 技工の仕事は、技工士学校の先輩で、実習科(専門課程)の垣内昭仁さんと一緒だった。

垣内さんはまったく先輩ぶらずに、とても優しい人。 僕の悩みやグチを、嫌な顔ひとつせず、いつもニコニコしながら聞いてくれた。(カウンセリングだったのかも) それと、お風呂作法の貴重なアドバイスもいただいた。 「体を洗う際、タオルを使わずに、君の下着を使いたまえ」と。

ここまで書いていてふと気付いたが、この歳(現在61歳、前期高齢者)になるまで、出会う人達すべてが、僕に優しくしてくれたこともそうだが、居候生活の、回数の多さや、長さは、もう奇跡としか言いようがない。 (両親と神様に感謝するしかないともいえる)

さて、垣内さんは、その後まもなくカナダに渡航し、ジョーカキウチ(本当は英文字)の名前で永住権も取得され、現在はバンクーバーでラボの経営者として活躍されている。

阿部歯科の院長先生は、清水歯科の先生とは違い、技工自体はまったくしなかったが、夜遅くまで僕が仕事をしていると、技工机の端っこに、だまって百円玉を置いてくれるような優しい人だった。


技工士学校を卒業

昭和42年(1967年)は日本初の深夜放送”オールナイトニッポン”が始まった年なのだが、僕の場合、最終学年の三年生になって、ついに臨床実習がはじまった。
今までの模型実習ではなく、大学病院に来た実際の患者の入れ歯や差し歯を作る授業だ。

僕は、毎日アルバイトをしなければならなかったので、幸か不幸か他の同級生よりもいち早く技工実習を終了し、(技工アルバイトのおかげと、先生の配慮?)早く帰ることができた。

そして、いよいよ卒業が近づいてきたある日、阿部先生は「須藤君、もし実習科(技工士学校の大学院のようなもの、専修科とか研究科と言う学校もある)に行きたいのなら、Y先生に話してあげるぞ」と言われた。

阿部先生は、技工士学校実習科の講師をされていたY先生と歯科大学で同期だったので、面接試験などが有利となる。これはとてもありがたい話ではあった。が、もうこれ以上、僕を養育してくれている義兄や長姉に迷惑をかけるわけにはいかなかったので、泣く泣くお断りした。

・・という理由もあることはあるけれど、本当は、このまま実習科にまで行ってしまうと、僕はきっと高飛車で鼻持ちならないような嫌な人間になってしまうことも予感したのだ。(今は鼻持ちならない人間にはなってしまったが・・・)

そして、なんとか国家試験も受かり、技工士学校も無事卒業し、いよいよ社会人となった。 今思い返しても技工士学校での3年間は、あっという間の、夢のようなできごとであった。
というか「自分がここにいる」ということ自体が、今でも夢のようではある。

神奈川歯科大病院の頃

神奈川歯科大学補綴学教室に就職

昭和43年(1968年)、メキシコオリンピックの年(だがマラソンの円谷幸吉選手の死は痛ましく遺書はあまりに悲し過ぎた)。
技工士学校卒業後は神奈川県横須賀市にあった清水歯科医院に就職する予定だった。

しかし、その頃、清水先生が稲岡町にある神奈川歯科大学病院の歯科医も兼務されていたこと、技工士学校先輩の仁科さんも神奈川歯科大学にいたことや、神奈川歯科大学が医科歯科大学と違い、いかにもアイビーが似合うようなキャンパスだったこともあって(笑)、急遽、神奈川歯科大学補綴学教室(兼歯科大学病院)に就職することになった。(注:僕は今でもVANの創始者、石津謙介氏を尊敬している。手持ちのシャツのほとんどはボタンダウンだ)

そして週3回5千円で、病院勤務が終ってから清水歯科医院で技工のアルバイトもすることになった。 神奈川歯科大の給料が手取りで2万円ぐらいだった。食費代5千円で、またまた、義兄の家でお世話になることに。

注:アイビーとは、1960年代に東京のみゆき通りに集まった流行に敏感な若者「みゆき族」の間で発生した服飾文化で、後にトラディッショナルなファッション分野として定着したスタイルのこと。 ボタンダウンシャツはアイビーファッションのアイテムの一つで、襟の先とシャツ本体をボタン留めしたシャツを指します。


白い巨塔さながら

神奈川歯科大学の初代学長は、東京医科歯科大学の歯学部長だった桧垣麟三教授。 当時の神奈川歯科大学は、まだ出来たばかりで、教員がすべて他の歯科大学出身者だった。そのせいか、教員間で何かとギクシャクした雰囲気がただよっていた。

僕が所属していた補綴学教室で、一番勢力があったのが杉崎寿教授、松尾悦郎教授ら日本歯科大学出身の先生たち、次に浮谷実教授、青木英夫助教授ら東京歯科大学出身の先生たち、そして、東京医科歯科大学の先生はY先生だけだった。

日歯(にっぱ)と東歯(とうし)による人事などの主導権争いは、あの山崎豊子著「白い巨塔」さながらであった。 僕は新米の技工士だったので、どちらの学閥にも相手にされなかったのは言うまでもない。医科歯科のY先生だけでなく、日歯や東歯の先生からも可愛がられたといってもよいくらいだ(笑)。

技工士学校の先輩、仁科先生は、前述した垣内さん同様、よく僕のグチを聞いてもらった。 (それにしても、その頃の僕は、どこでもよくグチを言っていたものだ)

さて、僕は松尾悦郎教授の技工と、学会用のスライド写真を用意したりすることが主な仕事だった。 松尾先生の患者さんはすべて紹介患者であり、かつ社長夫人など、裕福な患者さんばかりだった。
そして、当然ながら、それらの患者さんは当時の最新治療を施された。その技工は仁科さんだけでなく、僕も担当するわけで、それを知らない患者さんとしては幸せだったかどうかは、今となっては知るすべもない。


先生方の技工を手伝う

僕は、松尾教授の技工だけではヒマだったので、学生用のデモ模型の製作や、他の先生方の技工の手伝いもよくした。
嬉しそうに技工をしていたのは清水良雄先生ぐらいで、他の先生たちは技工を仕方なく、していたみたいだった。 その中でも、とりわけ技工が苦手だった女医のT先生は、いつもため息をつきながら技工をしていたので、僕の「手伝わせてください」という申し出は特に喜んでもらえた。

当時、神奈川歯科大学は、まだ歯科技工士学校がなく、講師以下の歯科医は担当患者の治療だけでなく、技工もすることが義務だった。 ちなみに、現在の歯科医師は、歯科技工をする歯科医師自体が珍しい存在である。

※松尾教授は、当時「義歯アタッチメント(入れ歯の維持に使う精密器具)」に精通しており、その分野では広島大学の津留宏道教授と並び称される大家だった。 今思えば、僕ごとき新米技工士が松尾教授に師事できたこと自体、奇跡だった。

そしてそれから、わずか一年で僕は思い出多い神奈川歯科大学と、清水歯科医院を辞めた。

長野恒児デンタルラボの頃

戦場のような忙しさの中で

昭和43年(1968年)、12月にはあの「三億円事件」が起こった。僕は19歳。
神奈川歯科大学を退職し、次に勤めたところは、東京の高田馬場にあった「長野恒児デンタルラボラトリー」。

技工士学校の2年先輩だった長野さん夫婦が経営していたラボだ。 彼は、僕が技工士学校の新聞部にいたときの部長だった人。 僕が神奈川歯科大にいたときも、時々技工の仕事を手伝ったことがあった。

しかし、ここは神奈川歯科大と違い、食事も満足にできないくらいに毎日が戦場のような忙しさだった。 ※現在でも民間のラボは、神奈川歯科大学病院とか医科歯科大学病院などと違って、納期(製作日数)も半分以上短く、徹夜も珍しくない。
あるときなど、スリッパを靴に履きかえるのももどかしく、着替えもせず、汚れた白衣とスリッパのまま、納品先の目黒の歯科医院まで車の運転をしたこともあった。

技工営業というものも初めて体験した。 民間ラボは、大学病院のように、だまっていても技工の仕事がもらえるわけでなく、それぞれのラボ同士で仕事の奪い合いとなる。 「早い」「安い」「上手い」といった、どこかで聞いたようなフレーズと、技工物サンプル持参で歯科医院に売り込む。 その中でも「安い」がもっとも評価される、厳しい世界なのだ。

長野恒児デンタルラボラトリーは、神奈川歯科大での優雅な技工生活とは雲泥の差だった。
しかし、いつしか、そのような厳しい環境にも次第に慣れ、平気でお得意様であるところの歯科医にお愛想を言えるようになった、自分の胡散臭さがとてもおかしかった。


川崎に移転

仕事もようやく慣れ始めた1年後、長野さんは以前からの持病が悪化して、長期入院することになった。 そこで、僕がそのラボを引き継ぐことになった。 ※長野さんは、退院してからしばらくして亡くなった。まだ20代だった。

入院して主のいなくなった高田馬場にあったラボを、こんどは長野さんの実家(川崎市生田)に移転することにした。 長野さんの父上は、当時丸の内に本店がある大企業の勤務技工士で、自宅にもラボがあったのだ。

長野さんの父上は、若い頃、まだその頃は存在していなかった歯科技工士会の設立運動や歯科技工士の待遇改善など、技工士の社会的地位の向上にも尽力した名士だった。 また、技工も巧みだった。
当時、差し歯の主流だった「無縫冠(むほうかん)」は、適合や形態が劣悪だったことで「バケツ冠」と揶揄されていたが、この父上はそのイメージを覆すほどの名手だった。

微力ながら、少しでも生活の足しにでもなればと思い、幼子を抱えていた長野さんの奥さんに技工の外交(集配)を手伝ってもらった。
しかし、それから2ヶ月後、不快指数がきわめて高い6月のある夜、長野さんの父上に突然ラボを追い出された。 「技工の時間が長いことや、技工の音がうるさいので、近所迷惑になる」という理由で。

その日の夜中、世間の無情を感じながら、雨降る中を集配用のオンボロ車に、やりかけの技工模型を黙々と積み込み、その仕事場を撤収した。

ユアーデンタルの頃

自分のラボを開業する

昭和44年(1969年)、東名高速道路が全線開通した年の6月、僕は20歳。
突然ラボを追い出された翌日、幸いなことに生田駅から徒歩8分ほどの場所でラボ兼住居となる貸家が見つかった。 世間は、そうそう無情なわけでもなかった。

子どものころに両親を亡くしてからこのかた、何かと気兼ねが多い居候生活も、長野さんの父上のお蔭で、ついに終わりにすることができたのだから。 しかも、幸いなことに、「長野デンタルラボ」から引き継いだ取引先の歯科医院は、その間の事情を知っていたので、技工物の納期を延期してくれただけでなく、引き続き仕事が貰えたことは本当にありがたかった。(患者さんにはご迷惑をおかけしましたが。)

なにはともあれ、人生はあざなえる縄のごとし。 しかし、ラボの名前だけは、まだ世間に対して気兼ねの臭いがする「ユアーデンタル」とした。

ついに自前のラボが開業できたのだ!
それからは生活は苦しくとも夢中で仕事に取り組んだ。


悩みと憧れ

二年目には、技工士学校の同級生だった寺内さんも加わり、共同でラボを運営することになった。 仕事は順調で、三年目には、生田駅からひとつめの向丘遊園駅近くのビルに仕事場を移転することもできた。 しかし、技工の仕事が次第にマンネリ化し、悩みはじめた。

開業できただけでも満足しなければならないとは思いつつも、このまま保険技工ラボのオヤジで一生を終るかと思うとやるせなかった。 神奈川歯科大学病院の頃のように高いレベルの技工への憧れがどうしても絶ちがたかったのだ。 その思いを更に高めたきっかけは、新宿にあった「ニューデンタル」というラボの存在だった。

その頃は、メタルボンドセラミックス冠すら珍しい時代で、自費の差し歯は、ポーセレン前装継続歯(リバースピンフェーシング・セラミックスクラウン〜陶歯の裏側に特殊なドリルで穴を開け、補強するために金属と接合させた差し歯)というものが全盛期だったが、その「ニューデンタル」はメタルボンドセラミックス冠など最先端の技工に取り組んでいた自費技工専門のラボ。
僕たち技工士にとっては憧れのラボだった。


憧れのニューデンタルに入社

昭和47年(1972年)、僕は23歳。
この年はグアム島で元日本兵の横井庄一さんが発見されたり、連合赤軍の5人が軽井沢の浅間山荘に龍城したり、作家の川端康成氏が亡くなったりと印象的な事件が多い年だった。

「ニューデンタル」の経営者、益田さんは、愛歯技工専門学校ポーセレン科(以下「愛歯」と略します)を卒業後、東京医科歯科大学(以下「医科歯科」と略します)の実習科も卒業した人だ。 僕が技工士学校の3年生のとき、益田さんは実習科の1年生。
そのときから、僕と益田さんは、何だかウマがあった。

益田さんは、僕が開業後も、ときどき自費扱いの高額な義歯の技工の仕事を回してくれた。 しかし、経営者としては問題の人だった。
彼は、経営者というよりも、どちらかというと芸術家の資質のほうが豊かな人で、僕が入社する前は優秀な技工士が短期間で次々と辞めていくことでも有名なラボだった。

だからこそ、逆にそのラボに興味というか闘志が湧いてきた。 益田さんは「いつでも来い」といってくれたが。

そこで、共同経営者であった寺内さんに相談したところ、簡単に僕のワガママを聞き入れてくれた。 それどころか、応援してくれた。「嫌になったら、いつでも戻って来ればいい、須藤のラボなんだから」と。
寺内さんは、若い頃に父親を亡くし、片親で育った苦労人であり、頭脳明晰、そして情も深い人だった。 僕の気持ちを、とっくに察していたのだ。

そこで、ついに憧れの「ニューデンタル」に入社した。

それにしても、このような手前勝手なことに気付かない若さというか馬鹿さは、還暦を迎えた今も健在です(汗)。
※寺内さんは、現在も藤沢で「ユアーデンタル」という同じ名前でラボを経営されている。


社長の益田さん

昭和47年(1972年)6月、佐藤首相が退陣を表明した。 僕は23歳。
ニューデンタルの社長、益田さんは、愛歯技工専門学校(以下「愛歯」と略します)ポーセレン科を卒業後、東京医科歯科大学(以下「医科歯科大」と略します)の歯科技工士学校実習科も卒業した人。
当時、まだ医科歯科大ではメタルボンド冠は研究段階だったが、愛歯ではメタルボンド冠はとっくに臨床(実用化)段階だった。

その愛歯のポーセレン科を卒業した益田さんは、学生の身でありながら、医科歯科の技工士学校の先生たちにメタルボンド冠の製作技術を紹介した人。
しかし、前述したが、ニューデンタルは優秀な歯科技工士が短期間で次々と辞めていくことでも有名なラボだった。

まあ、歯科技工という仕事自体が長時間労働で賃金も安く、汚れ易い仕事なので、短期間でラボの転職を繰り返すような技工士は今でも珍しくない。
ところが、入社当時は僕も含めて5人だった「ニューデンタル」は長時間労働がいくらか改善したせいもあって、幸いなことに辞める人がほとんどいなくなった。


専務取締役に抜擢される

次の年、さらに社員も増加した。
そこで、「ニューデンタル」を株式会社として法人化するとともに、名前も「マスターワークス」と改名した。 マスターは名人という意味もある。つまり「マスターワークス」とは「名人の仕事場」という意味なのだ。

それと、益田とマスターという名前、似てると思いませんか。 そう、この「マスターワークス」という名前は僕が命名した。 その益田さんへの功績?(ごますり)のせいか、僕は24歳で専務取締役という重役に抜擢された。

余談(自慢)ですが、当時の歯科技工所のネーミングは、ほとんどが「○○歯科技工所」とか「○○デンタルラボ」、「○○補綴研究所」だったので、この「マスターワークス」という車の整備会社のようなネーミングは、結構当時は画期的で、われながら傑作だと思いましたね。

マスターワークスの頃

絶好調の時代

昭和48年(1973年)、僕は24歳。
この「いざなぎ景気」と呼ばれた高度成長の時代は、今ではとても考えられないが、全国所得者番付に歯科医も登場した時代だった。経済界だけでなく、歯科医療業界にとっても、黄金の昭和時代だった。

わが「マスターワークス」も順調に発展し、仙台、千葉、横浜にも進出を果たした。 社員数も60名を越え、国内でも有数のラボに成長した。各地の歯科技工士学校から社内見学の申し込みまであった。
また、「パナックス(現アイボリー株式会社)」という歯科技工用品専門の会社も設立した。 マスターワークスと取引関係にあった新橋にある歯科用品販売の老舗「林歯科商店」の社員数名もパナックスに入社してくれた。

パナックスでは、僕たち歯科技工士たちが考案したオリジナルなものやユニークなものを主に販売した。 「コメット120」というダウエルピン植立器、「マスターレスト」、「マスタードリル」、「ピンドリル」などといった模型用器具、「ナックス」(分離剤容器)、「ローターファイル」(模型切削器)、「タッチマッチ」(溶接器)、「クリンクル」(ポーセレンパウダー撹拌器)など、次々と開発した。

そして、全国各地で開催されたデンタルショーや、ドイツで開催されたデンタルショーには、益田さんと共に行った。僕には初めての海外旅行だった。 その頃、僕はマスターワークスの技工の仕事より、パナックスでの販売の仕事が主になった。
マスターワークス絶好調の時代。


社長になる

昭和54年(1979年)、あれから6年が経過し、僕は31歳になっていた。
”江川事件”(江川卓氏が阪神タイガースと入団契約したが即日、巨人の小林繁氏とトレード)が起こった年。SONYからウォークマンが発売されたことも懐かしい。

しかし、マスターワークスの春は、そう長くは続かなかった。
転落のきっかけは、技工の仕事ではなく、模型分割用の電動ノコギリ「プレシジョンセパレーター」という商品。 命名は、技工士の桑田正博先生。 桑田先生は、益田さんと同じ広島県人であり、愛歯の先輩だったことや、僕もクワタカレッジで先生の講義(ポストグラジェートコース:歯科技工士のための卒後研修)を受講したこともあり、快く命名してくれた。僕的にはプレシジョンセパレーターなんてイカサない命名だと思ったが。

※なお、桑田先生は20代のころ、愛歯からの派遣で米国に留学され、メタルボンド冠をわが国に紹介したこともあり、「世界のクワタ」と呼ばれるほど、歯科業界では有名な人。 今もご健在で、愛歯技工専門学校校長、クワタカレッジ主宰、ボストン大学歯学部客員教授、Academy of Prosthodontics「アメリカ歯科補綴学会名誉会員」など数多くの要職につかれています。

さて、このプレシジョンセパレーター、実用新案を取得するまではよかったが、実際に販売してみると、致命的な不具合が判明してしまった。 模型を支える台座がノコギリの力で動いてしまうという不具合のため、返品の山となった。

翌年、昭和55年(1980年)、その責任をとって益田さんはマスターワークスの社長を退任し、会長になった。そして、僕が社長となった。
今思えば、僕は人の上に立つほどの器量もなかったので社長就任なんてよせばよかったのだが、そのときは”勢い”というもので・・・(汗)。 後の祭りということ。

結果的には、ただただ社員たちに迷惑をかけてしまった(大汗)。


混迷の渦の中

昭和55年(1980年)、僕は32歳。
夏に起こった新宿バス放火事件は痛ましい限りだった。秋には横須賀出身のスーパースター、山口百恵が引退した。

益田さんは社長を退任した翌年に、桑田先生の紹介でアメリカに渡った。 いつも強気だった益田さんも、その時だけはオーラもなく、とても寂しそうだった。
でも、なんだか、うらやましかった。 益田さんは、当時の世界審美歯科学会会長、ドナルド・E・ゴールドスタイン先生の歯科医院に就職したのだから。

その後、数年して、益田さんはアトランタで「マスターワークス・インターナショナル」を設立し、今度は成功した。 そもそも益田さんは、せせこましい日本よりもアメリカが似合う人だったのだ。 ちなみに、彼の令夫人は僕の同級生だ。

その後、10数年間、僕はマスターワークスの社長をしたけれど、もとより経営者としての才覚もなかったわけで、有能な社員ほど次々と退職した。
「ここは玉が出ないパチンコ屋なんだよね」との捨て台詞をもらったこともあった。

売上を伸ばすために、保険技工にまで手を出したことがさらに窮状を深めた。 保険技工は、品質よりも料金が安ければ安いほど仕事を取ることができるが、その分、人も確保しなければならなくなる。
仕事を受注する営業マンは「少しでも安くしろ」というし、現場の技工士は、「そんな安い仕事なんか取ってくるな」というし。

その時期、社員の前での恒例の年賀挨拶が「朝になる前が一番暗い、諸君!もう少しの我慢だ!」だった。 これでは社員たちは失笑するしかない。 この、おろおろ社長は、さらに混迷の渦の中に。
こうなったら、渦に巻き込まれて死んでやる、と。


歯科医院紹介業を考え始める

平成9年(1997年)、僕は49歳。
マスターズでタイガー・ウッズが最年少優勝を遂げた年。そしてダイアナ元皇太子妃がパリで事故死した年。人生は人それぞれに悲喜こもごもだ。

さて、マスターワークスが、そんな窮状のとき、僕が考えたのが「ラボの協業化〜アイボリーユニオン構想」というものだった。
技工の営業部門だけを別の会社にして、技工料は各ラボ同士であらかじめ統一し、各ラボの技工部門同士で品質競争をさせるというもの。 実現できれば、少なくとも参加してくれる各ラボ同士での技工料のダンピング競争だけはしなくてすむと思った。

このアイボリーユニオン構想について、知り合いのいくつかのラボの社長に提案した。 その結果、真面目に協議に応じてくれたのが、益田さんの愛歯時代の先輩だったNデンタルとSデンタルの社長たちだった。どちらも大きなラボ。

しかし、実現までもう一息というところで、マスターワークスの会長でありオーナーでもあった益田さんは、僕がまったく知らない間に、マスターワークスの経営権そのものをNデンタルの社長に譲っていたのだった。
昔の頃のように益田さんの思い通りに動こうとしなくなった僕を、ついに見捨てたというわけだ。 これにはあきれた反面、ありがたくもあった。

僕は、もう社長業は懲り懲りだったし、もしかしたら歯科医院紹介業ができるかもしれないと思ったからだ。 このことはNデンタルの社長にもすでに知らせてあったが、このときのNデンタルの社長はマスターワークスの顧客(お得意様歯科医院)と僕に関心があったとしても、「歯科医院紹介業」の構想自体には、さほど興味は示さなかった。

それにしても、マスターワークスに雇われていた社員たちは哀れなものであった。
(※無能な僕の責任でもあるのですから、他人事ではありませんでしたが・・・)

力がある者は独立していったが、独立できなかったからこそやむなく居残った社員たちは、Nデンタルに否応なしに転籍しなければならなかった。
次の社長が、たとえ嫌な奴だったとしても・・・。


社長を退任する

平成9年(1997年)は消費税が3%から5%に引き上げられた年。僕は49歳。
マスターワークスがNデンタルの傘下に入った後も、まだ僕はマスターワークスの社長という肩書きはあったが、既存の顧客がなくならないようにするためだけの形式的なものでしかなかった。

そんな、ため息ばかりの日常を繰り返していたとき、僕が構想していた「歯科医院紹介業」をすでに実践している会社があることをN社長から知らされた。 しかも、大繁盛だと言う。

その会社は若い女性向けの有名な月刊誌やインターネットサイトで、派手な宣伝を繰り返していた。 「この業界で最大手なので安心」とか「もう高額な治療費で悩まないで」とか「たった3回で治療が終わる」など(僕から見たら)明らかにインチキ臭い宣伝にもかかわらず、ブランド雑誌の威力によるのか、歯のことで悩んでいる女性たちの人気を捉えたのだろう。

マスターワークスの取引先だった歯科医院も、常識的にはとても考えられないようなとても安い治療費で、その会社に協力していた。 良い先生だっただけに、何だか悲しかった。

それはそれとして、このようなひょんなことで、わが歯科医院紹介業の開業が早まった。 すでにN社長には2年前に僕の構想は知らせてあり、そのときはあまり関心がなかったくせに、この会社のおかげで、今度は彼も大変乗り気になったのだろう。
なにはともあれ、長年の夢だった「優良歯科医院紹介業」という仕事に、僕が取り組むことになったのだ。

そして、この新しい仕事に専念するために、僕はマスターワークスの社長を退任した。
僕はもう52歳になっていたが、再び25歳の青年のようにやる気がよみがえった。

しかし青春時代の大半を過ごした我がマスターワークスは事実上このときに消滅した。

歯科医院紹介業を始める

アイボリーネットサービスの発足

平成13年(2001年)、僕は52歳。
横須賀市出身の政治家、小泉純一郎が第87代首相に就任した年。

ついに歯科技工士による優良歯科医院紹介業〜アイボリーネットサービス(現あいぼりー歯の相談室、会社名:アイボリー株式会社)を発足させた。
従業員はNデンタルから出向してきたベテラン歯科技工士のOさんと、パートの歯科衛生士Sさんと僕も含めた3人だけ。忙しいときはカミさん(元歯科技工士)やNデンタルの社員たちも手伝いに来てもらった。 N社長だけでなく、Nデンタルの幹部社員も我がアイボリーの株主になってくれた。

歯医者さんは僕が昔から知っていた先生を含め、最初は3軒しかいなかった。
しかし、それ以上に気になることがあった。 N社長や株主の多くが“歯科医院紹介業”というよりも、どちらかというと“患者紹介業”という意識が高く、患者の都合よりNデンタルや歯科医院側の都合が優先されそうだった。
経営的なことを考えれば、当然とはいえるのだが。

それよりも、この歯科医院紹介業という珍しい仕事をどうやって世間に知らせるかのほうが、より大きな課題だった。

そこで、会議を重ねた末の結論が、なんと「ミス・ティース・オーデション」という歯のコンテストをすることになった。 N社長が知り合いだった芸能プロダクション社長S氏の発案で。 今思えば冷や汗ものだが、そのときは全員が「結構面白いかも」と思ったのだから、不思議。

ミス・ティース・オーデションは、本当にその年の晩秋のころ開催された。
開催場所は、千葉県にある八千代台駅に隣接しているショッピングモールの屋上。 僕が審査委員長で、知り合いの歯科医や、Nデンタルの技工士Oさん、元ジャニーズのH君が審査員。 Oさんはタレントの人たちと一緒に、懸命に道化役も演じてくれた。

観客は200人ほどいたが、H君のファンがほとんど。 その様子は有線テレビで深夜に放映された。 費用は500万円位はかかったと思う。

しかし、ものの見事に、そのお金は泡と消えた。
観客も含めて、視聴者からの反応はまったくなし。 そんな胡散臭いことをしたのだから、天罰ともいえた。

芸能プロダクションのS氏は僕たち歯科技工士たちの世間知らず振りが、さぞやおかしかったことと思う。 また女性誌にも一度だけ広告したが、この反応も惨憺たるものだった。 そんなこんなで、歯科医院紹介業のスタートは大失敗だった。

ところが今思うと、僕にとってはこれら一連の出来事が、かえって幸いな出来事となったのだから、まさに人生はあざなえる縄のごとし。
N社長をはじめNデンタルの社員全員が「歯科医院紹介業」をほうほうのていで見限っていったのだから。
Nデンタルから手伝いに来てくれていた技工士のOさんも来なくなった。


いつも人生ぎりぎり(最終回)

平成14年(2002年)、僕は53歳。小泉首相が北朝鮮を訪問した年である。

とにかく、時間だけは豊富にあったので、機会あるごとにインターネットの検索サイトに「あいぼりー歯の相談室」のことを告知したが、まったく読者からの反応はなかった。
これも今思えば当然のことだったが、そのときはまだ「明日になれば何かしら反応があるのでは」と、インターネットサーフィンの毎日だった。
しかし、借金は増え続けているのに時間だけが虚しく過ぎ、いよいよ仕事を止めなくてはならない期限が刻々と迫っていた

そのような時、色々な企業ニュース(プレスリリース)を新聞社やテレビ局などに流しているスーパーピーアールという会社があることを、偶然インターネットサイトで知った。 この会社なら、もしかしたら歯科医院紹介業も、ニュースとして取り上げてもらえるかもしれないと、なんの根拠もなかったけれど思った。

その会社に電話で問い合わせてみると新聞社などからの取材の有無にかかわらず、そのプレスリリース費用が、おおよそ10万円になるという。
昨年大失敗した「ミス・ティース・オーディション」の費用に比べれば、この費用は格安ともいえたが、このときには資金も尽きかけていたので、とても迷った。

しかし、このままではどうせ破産してしまうのだから、何もしないよりはいいと自分に言い聞かせつつ、その場で申し込んだ。

それから一週間後、なんといくつかの新聞社から本当に取材があった!
とりわけ、産経新聞が翌年1月8日の朝刊に掲載した記事の反響の凄さには驚いた。 記事掲載当日は、文字通り朝から晩まで3本の電話が鳴り止まなかったのだから。

その後も現在に至るまで、ありがたいことに数え切れないほど沢山のメディアから取材を受けた。 その中でも、とりわけ僕が感激したのは、平成20年(2008年)9月20日に掲載された朝日新聞の「団塊はいま」という記事。 今でも改めて読むと泣けるほどに。

この時の反響は産経新聞掲載時をはるかに上回って大きいもので、掲載当日は無論のこと、それから一週間は休日返上で一日中、電話やメールの問い合わせに対応した。
まるで台風のようだった。
しかし台風一過の後は少々物足りない日々が続くのも、いつものこと。また嵐が過ぎ去った後の置き土産とでもいうのか、あらぬ誤解や中傷も受けた。その影響は今も残って、続いている。

「神様、なんとかして!」と天を仰ぐことも一度や二度ではないけれども・・

どうも僕の神様は、いつも人生ぎりぎりにならないと、助けてくれないみたい。

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